小学3年生から軟式野球チームに入る。中学からはシニアチームに入り、全国大会でPL学園関係者の目に留まり、高校はPL学園に進学する。第69回全国高校野球選手権大会に唯一2年生として出場。決勝戦でも3塁手としてスタメン出場し、全国制覇を経験。
その後、社会人や大学からたくさん勧誘があったが、同志社大学に進学する。関西学生リーグでは首位打者などタイトルを獲得。
1990年の明治神宮大会に優勝。
プロ球団からのスカウトもあったがプリンスホテルへ入社。
その後1994年ヤクルトスワローズに逆指名で入団。
1996年後半よりレギュラーを務め、1997年にはゴールデングラブ賞を獲得。
2001年には2番打者に固定され67犠打でシーズン最多犠打記録の日本記録を打ち立てるなど、日本一に貢献。シーズン67犠打は世界記録である。
1999年から2003年まで5年連続ゴールデングラブ賞を受賞した。
2004年アテネ、2008年北京五輪に日本代表キャプテンを務め、チームを牽引。2006年WBCではチームのまとめ役として優勝に貢献。
2008年からは三塁手にコンバート、ゴールデングラブ賞など受賞。
2012年には2000本安打を達成し名球会入り。
2013年選手兼任コーチとしてプレー、同年8月に現役引退を表明。引退後2018年シーズンより1軍ヘッドコーチに就任。2019年辞任。
その後、NHK解説者、日刊スポーツ評論家の傍ら、学生野球資格を回復し、学生への指導や臨時コーチなどを務める。